神の愛    

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
(ヨハネ15.13)

 人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります。しかし、皆さん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。真に自分がかわいいということは、おのれのみにくさを憎むことであります。しかし、我々は自分のみにくさを認めたくないものであります。たとえば、人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義のしからしむるところのように思うのであります。俗に、泥棒にも三分の理という諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申し開くところがありましょう。しかし、泥棒には泥棒の言い分があるのであります。
 皆さん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生まれつきの盲人をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、皆さんおわかりですか。皆さん、ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を我々に下さったのであります。
 彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにはっきりと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。(小説「塩狩峠」より)
 
ここでは「神の愛」、「聖書の真理」について述べたいと思います。(一部、三浦綾子著「新約聖書入門」(光文社)から引用させて頂きました)

●重荷を負っている人
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。 (マタイ:11.28)
 重い荷を背負い人生に疲れ果てた人はいるでしょうか。病の床で苦しんでいる人はいるでしょうか。人間関係に傷つき悩んでいる人はいるでしょうか。悲しんでいる人、心に平安が欲しい人、人生に絶望している人.....。イエスはそのような人達を招いておられます。私のもとに来なさいと。イエスを信頼し、招きに応じてみませんか。イエスはあなたの重荷を取り去り、心の傷を癒し、たましいに平安を与えて下さるのです。

●渇かない水
 この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき上がります。(ヨハネ:4.13)
 決して渇かない水とはどのような水でしょうか。私たち日本人は砂漠や荒野で暮らす人々の「渇き」を真に理解することは出来ないかも知れません。彼らにとって水はまさに「命の水」なのです。水は飲んだ後、しばらくは体が潤っていますが、やがてまた渇いてきます。これがふつうの水です。しかし、イエスの与える水は決して渇かず、その人の内側で泉になると言うのです。
 私たちの日本は、あらゆる物に囲まれ物質的には豊かな国です。しかし、こんなに豊かな社会に生きていながらも、私たちの心の奥底には空しさが有りはしないでしょうか。人は心の内側に満たされない何かを秘めていると思うのです。物理学者パスカルは言いました。「人の心には神の形をした空洞がある」と。人はその空洞を、色々な物質や娯楽で満たそうとします。車、スポーツ、ディスコ、カラオケ、パチンコ、ゲーム....。しかし、何をやってみても心の満たしは持続しないでしょう。パスカルは「この空洞を埋めることが出来るのは神のみである」という結論に達しました。
イエスは言われます。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがありません」と。イエスが与えて下さる水とは何でしょうか。それは神の霊です。イエスを信じた者に聖霊が宿られ、その人の心の内側から喜びがあふれ、それは一生持続し、更に永遠の命までもが与えられるのです。

●心の貧しい人とは

     心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 5.3)

 心の貧しい人とは、どのような人をいうのでしょうか。心の貧しい人とは人に誇るべき何ものをも持っていない人のことではないでしょうか。金もない、地位もない、知識もない、誇るべき何もないが故に、謙遜に、頭を垂れている人。イエスのまなざしは、いつもこのような弱い人々に向けられていました。私たち人間は、見た目や能力で人を判断します。しかし、神の判断基準は全く違うところにあるというのです。
 逆にイエスが退けられたのは、「自分を正しい」と思っている人間でした。「自分は大したものだ。学はある。金はある。才能もある。そして、人に尊敬されている....。」と数え上げては誇っている人間たち。考えてみると、私たちは神の前に立った時、本当に誇るべきものを、どれだけ持っているのでしょうか。金や地位があるからといって、それが天国の門を通れる条件ではないのです。 イエスは、心の貧しい者に言われたのです。「天国はあなたのものです」と。

●本当の自由とは

 私たちは、自由という言葉を、ともすれば自分のしたいままにふるまうことのように思いがちではないでしょうか。しかし真の自由とは、する自由としない自由が、自在に使い分けられるべきです。
タバコを吸う自由もあるが、吸わない自由もある。酒を飲む自由もあるが、飲まない自由もある。賭事をする自由もあるが、しない自由もある....。意志が弱いために常にずるずると引きずり込まれるのが自由であるとは決して言えないでしょう。このように考えてみると、自分の思いのままにふるまって、自由に生きていると錯覚している人ほど、不自由な人間はないのではないでしょうか。何故なら、それは単に欲望にとらわれ、欲望に負けている姿だからです。
本当に自由な人とは、欲望や誘惑に打ち勝ち、真に自分を制御出来うる人。このような人こそ本当の自由人ではないかと思うのです。貧しいものに施しをしない自由もあるが、する自由もあり、助けを求める者に見て見ぬふりをする自由もあるが、手を差しのべる自由もあるのです。

●本当の強さとは

  「神を信じるのは弱い人間」とは良く言われます。「俺は強いから神などに頼らずとも生きていける」果たして人間は強いのでしょうか。腕力のある人が強い人間ではありません。私たちは真の強さとは何かを吟味する必要があります。悪い事と知りつつもやめることが出来ず、良い事と知りながらも実行する事が出来ない人間。自分自身さえも正しい方向に制御し得ないのが人間の真の姿ではないでしょうか。
しかし、私は次のような人達を知っています。自分の信念を命をかけて守り通した多くの信仰者達、自分の救命胴衣を他の人に与え死んでいった宣教師、自分の命を捨て多くの人の命を救った信仰者・・・。何も信じられない現代社会。しかしこの世界には命をかけて信じるに値するものがあるのです。彼らはいずれも信仰を持っていたが故にこのようなことが出来たのでした。これらの行為は弱い人間に出来ることでしょうか。彼らは自分の命に執着しませんでした。彼らは知っていたのです。後の世界のことを。自分が何処に行くのかを明確に知っている者のみが出来うる行為。人間は弱い生き物ですが信仰により強くされるのです。

●十字架

    わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。

これは、十字架上でのイエスのことばです。本来は十字架につけられるべきは人間であり、その私たちに代わってイエスが十字架にかかられたことを知ったとき、初めてこの言葉の意味が分かってきます。人類にとって最も耐え難い苦しみ、それは神との断絶です。その耐え難い断絶をイエスは実に人類に代わって味わわれたのです。この言葉は、私たちの受けるべき罰を、一滴残らず、十分に受けられたことを、意味しています。
「神の子なら十字架から降りて見ろ。そしたら信じるから」..群衆はイエスをあざ笑いました。彼らはイエスが十字架から降りたら本当に信じたでしょうか。おそらく信じないでしょう。しかし、私がイエスを信じるのは十字架から降りなかったからです。十字架の上で十二分に苦しみを受けて死なれたからです。この自分の罪を、そっくりそのままその身にイエスが背負ってくださったからです。

   父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。

誰が今、十字架に自分をつけた人間たちを前に、しかも罵りわめく者たちの為に、このような祈りをなすことが出来るでしょうか。これこそが神の人格でなくて、何を神の人格とするのでしょう。三浦綾子氏は言われます。「このとりなしの祈りこそ私を受洗に導いた言葉であった」と。

●絶対基準

 昔、ある国の小さな町に一軒の時計屋さんがありました。店の主人は正午に聞こえてくる町の鐘の音を聞いて毎日店頭の時計を合わせていました。そんなある日、正午近くになると決まって店頭を覗きに来る不思議な紳士がいるのに気付きました。主人はその紳士に尋ねました。「どうして毎日店頭を覗きに来るのですか」 紳士は答えました。「私は町の鐘を鳴らす仕事をしている者ですが、毎日この時計の時刻に合わせて鐘を鳴らしているのです。」 「・・・・・」

 この時計屋のたとえは、話としては面白いのですが、考えさせられるものがあります。この話のポイントは時刻の絶対基準が無いということでしょう。私たちのこの世界も同じことが言えないでしょうか。回りの人を見て自分の行動を決める生き方。しかし不完全で、変わりやすい人間は基準にはなり得ないでしょう。私たちは善悪の判断基準をどこに求めれば良いのでしょうか。
 なぜ人を殺してはいけないのですか。なぜ盗んではいけないのですか。なぜ姦淫はいけないのですか。合意のもとでの不倫は許されるのですか?他の人もやっていれば許されるのですか??? 絶対基準が無いなら曖昧になり個人のモラルに左右されることになります。
そうではなく、これらは神が禁止されたからやってはいけないのです。「汝、殺すなかれ。姦淫するなかれ。盗むなかれ.....。」(出エジプト記:20.13) これは有名な「モーセの十戒」です。 これが人間の絶対基準です。世界の法律の原点がここにあるのです。

●北風と太陽

 イソップ童話の中に「北風と太陽」の話があります。旅人に対し北風と太陽が競い合うという誰でも知っている童話です。実はこの童話には聖書の真理を理解する上で非常に興味深い内容が含まれています。
北風は、旅人に対し力により腕ずくで自分の思いを果たそうとします。しかし、旅人は益々かたくなになり、必死で抵抗します。結局、北風は自分の思いを果たすことが出来ませんでした。しかし、太陽のやり方は北風のそれとは全く違っていました。それは「力」ではなく「愛」だったのです。愛は閉ざした心を開き、内側から人を造り変えることが出来るのです。 こうして太陽は旅人を得る事が出来ました。(旅人は人間、北風はサタン、太陽は神、の性質をそれぞれ表しています)
 人間の現実の社会はどうでしょうか。始めは小さな争いもエスカレートし、しだいに大きくなり、やがて戦争となります。 しかし、暴力に対し暴力で報いるのではなく「愛」をもって 迎えたならばどうでしょう。争いはそこでストップするに違いありません。
 イエス・キリストは言われました。「自分の敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい」と....。 そして巳をもって十字架上でその事を実践されました。 「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです....。」 この真の愛を知ることが出来たなら人は変わるのではないでしょうか。